魔除けとしての公共

2016年に、福岡市のart space tetraという場所で、作家の牧園憲二さんが企画してくれた展覧会がありました。そこで彼が寺江の紹介文を書いてくれていたのですが、それが僕の創作の雰囲気をとてもよく表してくれているので、紹介しようと思います。

寺江の作品の特徴の一つとして「寺江自身が他者へ関わりを投げかける」ものがあります。しかしそれらは決して受入れられやすいものではありません。むしろ相手に困惑を生むような場合が多々あります。テーマが「友情」や「植民地」「宗教」など容易に通じ合えるものではないから、というのもありますが、寺江のその手法がユニークであるというのも理由の一つです。

話しは変わりますが、寺江は外国人と話す時に共通言語である英語を使わず、日本語で話しかけ相手に困惑を与えます。しかし最後には何故かハグをしたりします。寺江は他者に対してわかりやすい共感を求めることはありません。しかしその『繋がらなさ』を持ってして他者との関わりをやめようとしません。『繋がらなさ』を生むことで他者との関わりの間に、別の回路を切り開こうとしているのかもしれません。個人間、地域間、国家間など、どんなレベルで起こっている事柄であっても、既にある言説に頼る事なく、自身をメディウムとした作品を通して投げかけ続けています。

art space tetra ウェブサイトより

最後の段落で書かれていることは、もしかしたら、この「ケーマゲヒンマゲ」で起こっていることを現わしているかのような。そういう現状です。


コミュニティの伝統を守るためにコミュニティを閉じるような作用と、コミュニティの経済を守るためにコミュニティを開くような作用とが矛盾を孕みつつ、同じ地域で起こっているということが、地方の田舎ではそういう雰囲気がまだかろうじて残っていそうだと感じています。この雰囲気が残っていなければ、すでに伝統はかなり無くなっている地域なのかもしれません。

地域の視点からは、この「ケーマゲヒンマゲ」は、単に変な関わりにくい人が来たと思われるだけでなく、金にも繋がらないという、どっちにも役に立たないものです。僕の芸術というのは、だいたいそういうもので、コミュニティが一目散にパスするような、利益のない有害なものかもしれません。しかし、実際には、ありがちな視点ですが… … 外の目から見た地域の魅力を再発見するような視点を使いアイデアを出すという、いわゆる観光につながるような視点もふまえつつ、ある提案をしてみようとしています。これは、UターンやIターンで島に戻ってくるような人達も持っていると言って良い視点です。地域の特徴や問題点を客観的な視点から改善に導こうとするもので、住民の地域認識に揺さぶりをかけ、ときに地域活性という変化を期待させる動きに繋がっていきます。僕は、このような活動の中から、地域の公共性という、公民館を単位とするような、ある特定の地域内の共通認識の形成の仕方や、その不可能性のようなものについてフォーカスして考え、創作しようとしています。

公共と言ったときに、いろいろな偉い人がたくさんのことを考えてるようで、下手にこの単語を使うと、どういう意味で言っているのかと言われ、何も言い出せなくなったことがあります。僕は、そのことについて真正面から取り組めるような知識を持ち合わせていないので、単に、「地域の人達」とか「住民」とかそんなふうに簡単な単語に置き換えるべきなのかもしれません。だけれど今、僕は地域アート系の展覧会に呼ばれているので、この昨今の状況を踏まえ、芸術がどのように公共と関係しているのか、関係できるのか、できないのか、などについて考えなくてはならないのです。それに、公共というのは本来、もっと自由に開かれた問いであるべきです。だって、みんなのものですもんね。たぶん……だから、考えている途中のことを、僕はここに示してみるのです。(※”考えている途中のことを示す”ということについては「いい加減なことを言うことができる関係について」を参照)


公共と言うからには、それは、皆がある程度、認めることができるような、「それでOKです」と思えるということが大事なようです。ある人が、「それはNOです」と言いはじめれば、協働で何かをつくりあげるようなことができなくなり、公共性の高い何かは生まれてこないのです。

ある程度納得しあって、協働してつくり上げていく地域の行事として、祭りがあります。だから祭りは、地域にとっても住民にとっても大変公共性の高いものだと言えます。また、祭りは、地域にとって大事なものであり、地域の個人個人が守りたいという気持ちになることで、初めて受け継いでいくことが可能です。一人で祭りを守ることは通常できません。ほとんどの住民が、「あの祭りはめんどくさいから辞めよう。儲けにもならないし。」と、思うようになれば、無くなっていくということが、むしろ公共的な判断となります。(※ここまでの内容を補足するものとして、インタビュー「たちまち」の④⑤もチェックしてみて下さい。)

祭りは、魔除けのようなものだと僕は思います。実際、安全や豊穣を祈願したりするので、そもそも魔除けなのですが、それだけではなく、祭りは地域のコミュニティをより濃く、結びつきの強いものにし、外と内をつくる作用があると考えられるからです。そうすることで、外の変な人間を察知できる、地域の目のようなものが出来上がり、安全がつくられ、魔除けになる。そういう祭りの効果はあると思います。僕の考えでは、より純度の高い公共というのは、こういった閉じた村のような状態の中で観察できることなのではないかと考えています。また祭りは、その最も重要な公共的な現れだと考えることができるのではないか。祭りのように、公共化される過程で、外と内ができあがるのではないか。また、それを薄めるかのように、それと矛盾するように、多様な人が入ってくるということが、経済と地域の活性化に必要で求められている。この外からの微小な変化の揺さぶりをかけることで、公共をつくる過程で生まれた外と内が、何となく薄まり、それによって全体主義的な雰囲気から逃れることができているだけではないか。という乱暴な仮説未満です。

公共という言葉を、全ての人や全体に関係あるものとして考えることは、正直言って、僕の能力では捉えることができないし、そもそもコミュニティは様々なレイヤーでできているのだから、国や県や人種や性差などのようなものでカテゴライズして単純化できるものではありません。その複雑なものを、唯一単純化して見ることができるかもしれないのが、特定の地域に絞るとか、祭りという行事に絞るとか、小さな区分で公共について考えてみるということです。そういう方法しか検討がつきません。また、魔除けのようなものとして、公共がそもそも他のエリアとの違いを生む効果を持つものだと考えてみることで、全体の公共性を担保できるものなど、見つかりっこない。という諦めのような境地に至らなければ、おそらく、言葉狩りのようなことが文化全般にまで進行してしまうことになるだけではないかと思います。

冒頭で紹介した文の中で、「「繋がらなさ」を生むことで他者との関わりの間に、別の回路を切り開こうとしているのかもしれません。」 とあります。これって、単に仲が悪い。とも言えるかもしれないのですが、それは、なんとなく、どうやって祭りを変化させ薄いものにするか。とか、祭りの魔除け性とか、そういうことと関係している言葉として捉えることもできるかも。と無理矢理、こじつけて紹介してみようとしましたが、どうなんだろうか。

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