インタビュー「花田伸一」

この「ケーマゲヒンマゲ」のための壱岐での滞在前日、2019年12月11日に、福岡で花田伸一氏と録音込みでの対談を申し込み実現した。以下は、その内容の書き起こしとなる。なお、収録に失敗し、音声がたいへん悪いデータとなってしまい、書き起こしでの公開となった。聞き取りが難しくなっている一部については、寺江と花田で内容を補う形で書き起こしている。

目次
1.「ことばのかたち」展とは
2.昨今の芸術祭
3.ケーマゲヒンマゲって
4.想像力ってなに
5.花田伸一略歴

「ことばのかたち」展とは


寺江:今日は僕が参加させてもらっている展示の企画をされている花田伸一さんに来て頂きました。よろしくお願いします。

花田:よろしくお願いします。

寺江:最初に、今回の展覧会がいったい何なんだということについて、僕もよく分かっていない点があるので、その辺りを教えて頂きたいなと思います。

花田:はい。そもそもは長崎県庁がやっている長崎しまの芸術祭という、美術、音楽、舞台などいろいろな芸術を含めた芸術祭があって、長崎県内の離島のあちこちでやられているんです。その中の壱岐島に関わるところを私がお手伝いしているということになります。その枠組みの中で、去年からフランスの方に壱岐に滞在してもらって、造った作品を展示するということをしています。それで、今年も芸術祭をするということになり、僕が関わるなら自分が知っている作家に入ってもらいたいということで寺江さんに来てもらいました。

寺江:これだけ壱岐でいろんな企画が他にもある中で、あえてまたここで芸術祭という形でやるというのは、何を求められているんだろうなということがあります。他にもカミテン(壱岐島限定カルチャー誌COZIKIの参加アーティストによる展覧会。https://kamiten.coziki.jp/)なんかもあるじゃないですか。そういった展示との違いを考えて企画をされると思うのですが。

花田:壱岐島内の他のイベントとの相対的な立ち位置などはそこまで意識していなかったですね。今回は「ことばのかたち」というタイトルですが、実行委員会にいろんな立場の方が入っていて、その間のコミュニケーションをどうとって関わるかということを考えていました。壱岐島の歴史ということではなく、事業に関わる人のコミュニケーションの在り方をテーマに他者とどう関わるかについて考えてのことでした。

寺江:そうすると、中の仕組みを考えることで、面白い仕掛けになると考えたということでしょうか。

花田:展覧会を見るお客さんには、寺江さんや、ヴァンサンさんやグウナカヤマさんの作品を見て、そこからコミュニケーションのあり方とか「文字」や「ことば」について考えを巡らせてもらえるようにしたいと考えています。一方で、展覧会をやるときって、その最も近くで最も最初に見る第一のお客さんとして一緒に展覧会を作り上げるメンバー、今回の場合、実行委員をはじめとする運営メンバーの方がいるじゃないですか。まずはその第一のお客さんに展覧会を見てもらうという意識があります。

寺江:僕と花田さんが一緒に仕事をするのは三回目で、一回目の長崎の伊王島というところでやったプロジェクトの印象が強くて、今回も島という共通点があるので、あの時のことを思い出しながら、花田さんのやり方を知っていて取り組んでいたので、僕はいつも通りにやらせてもらっていたのですが、ある部分で、花田さんと僕は似ているところがあると思ったんです。実行委員の中のコミュニケーションの仕組みをつくりたいと言われていましたが、たぶん花田さんはあまりそのことを直接言わないんだと思うんですよ。

花田さん:監修として僕が入っているので、みなさん僕のプランに従いましょうというふうにはなっています。

寺江:ただ、実行委員の方が第一の鑑賞者で、実行委員がいかに楽しめるかということを考えていると思うんですけど、その為に、直接的・具体的な、もっとこういうふうにしたら面白くなるんじゃないかとか、提案したり指示したりということは、なるべくしないという立ち位置ですよね。
花田:そうですね。

寺江:お互いそういうタイプだから、ずっと交わらなくて平行移動しているようで、実行委員の方たちはどういうことだろうと思われていたんじゃないかと思うのですが。

花田:もっと僕がだいたんに言うってこととか。

寺江:これは違うとかこうしましょうとか、そういうタイプのキュレーターもいらっしゃると思うんです。

花田:僕はあんまり外圧を加えながらやるということはしないんですね。かなり俯瞰的に見ています。いつもそうです。基本は作家さんのプランが第一で、それに変な力が加わらないようにということは気を付けています。それは実行委員の方にしてもそうですね。だから寺江さんとは三回目なんですかね。

寺江:そうですね。今回のケーマゲヒンマゲのプランも、花田さんじゃなかったら出してなかったかもしれないです。花田さんに「そろそろ実行委員の方にプランを説明しようと思います」と言われた時も、もうちょっと考えさせてくださいと引き伸ばしていました(笑)。

花田:そうよね。現地に入ってみないと分かんないよね。

昨今の芸術祭


寺江:今回、僕が難しいなと思ったのが、基本的に滞在が想定されていない展覧会ですよね。

花田:長期の滞在は想定されてなかったですね。

寺江:あらかじめその条件を僕が察知して、過去の作品などを持って来れるような作家だったら良かったんでしょうけど、それがなかなかできなくて、何度か滞在させてもらうことになりましたし、最後も滞在させてもらうことになりました。そもそも、滞在を前提にしない芸術祭って何なんだろうなっていう感じが僕はするんです。しかも僕は壱岐の人ではなく、他所から入るわけじゃないですか。壱岐のことを本で調べることはできるんですけど、各コミュニティにはいろいろな風習があったり、どんな人達が生きているということがあるじゃないですか。それを知って、どんなことができるのかとか何をやっていいのかとか、分かってくると思うんですけど、滞在を前提としない芸術祭というのはどういうことなんでしょうか。

花田:例えば、(長崎しまの芸術祭の)他の島でやられている音楽のイベントなんかは滞在は短いですよね。作品にどれだけ地元の要素をいれるかというのは濃淡があると思うんです。地方で芸術祭をやるときに地方色をいれなくてはいけないということはないんです。インターナショナルなものも入ってくる。寺江さんの場合は、地方色をどれだけ出せるかというアプローチですよね。

寺江:僕はそういうつもりはなくて、本当は美術や芸術について作品を通して考えるということをやってきていて、本来は場所は関係ないはずなんです。ただ、長崎県のお金を使っているとか、わざわざ他所から島に入るっていうことから、やっぱり観てくれる人のことが頭をよぎるんですね。僕の興味関心は無くならないにしても、観てくれる人が誰なのか、何ができるんだろうということを考えてしまいます。乱暴なことはなるべくしないほうがいいと思うんで、どうしても関わるということが入ってきてしまう。自分の個人的なことと地域の人とのことが二つ同時に現れてくるという感じです。

花田:地域の人と関わりながら展覧会をやるというときに自分の興味や価値観の一方的な押し付けにならないようにということですかね。さっきの話と重なるんですけど、チラシを見て展覧会を観に来てくれるお客さんと、展覧会を一緒につくりあげていく運営メンバーという、お客さんの層が2つあると思います。運営メンバーの中に、何らかの作用がおよんで、アーティストってこういう進め方や考え方をするんだというような気づきから、それが長い期間をかけて、じわっと実っていくというような、僕はそういうことを考えてますね。それは、なかなか一般のお客さんは触れられないことですけど。

寺江:それは分かるんですけど、今は、芸術祭って少し状況が変わってきてますよね。あいちトリエンナーレとか広島のニュースで話題にもなってしまったので。そういう点で、別の意味での、今まではなかったような関心を持たれていると思うんです。壱岐の中にもそういう方はいらっしゃると思います。それは気を付けないといけないことだとも思うし、僕は、ああいうことは、芸術関係者が怠ってきたから起こったのではないかというふうに考えるようにしてます。美術史なんかに一般の人の意見って絶対に入ってこないじゃないですか。そういうふうに、美術に関係ない者として、無視された存在だった人達が、急に現れたから、こんなことになったんだと思うんです。それを、もう一度、関係ある者として捉えて、美術を更新するという作業が必要なんじゃないかなと思うんです。

花田: 今このタイミングでやる意味合いをどう説明するかということですよね。まさに今の僕の職場(佐賀大学芸術地域デザイン学部)でもそういう領域の取り組みを看板に掲げているわけですけど。美術をやることの政治的な意味合いとか。この壱岐のプロジェクトについて言うと、「ことばのかたち」で取り扱おうとしている問題も、他者との関わり方をテーマにしていますね。それは昨今の芸術祭における問題にもつながっていて、これまでみたいに美術の世界のわりと閉じた環境の中でおさまっているのではなくて、美術史のくくり方にこれまで入ってこなかった他者との関わり方が問題になっていて、そこが僕も向き合わないといけない部分。やっぱりどうしても無意識のうちに閉じた人間関係の中で安心してしまうので。

寺江:基本的にこの件に関して僕は自信がないんです。個人の自由とか公共性がどうのということを言い出すと、ややこしくて、いろんな偉い人がいろんなテキストを書いていて、それを勉強していない俺というのがいて、簡単に公共っていう単語を使うと、誰の言っている公共なんだとか、どういう意味で言っているんだというふうに返されたりして、どんどん何も言えなくなっていくんですよね。だけど、僕はそういうことに関心があって、今のタイミングで芸術祭に参加するということになったら、僕は公共にとって何ができるんだろうとか、公共って何だろうかと考え作品プランをつくるんですが、基本的には何もできない。できないなりに、考えている途中のことを作品として仕立て上げるということを今回はやってみようとしています。本当は公共というのは、自由で開かれた問いだと思うんですけどね。

花田:分からない状況をあんまり整理したり削り取ったりしないで、ですよね。公共とか自由について議論するときって、議論のための議論になりがちじゃないですか。具体例を伴わない感じですよね。僕らは、具体的に顔を向き合わせて、関わった人との間で、どう自分が考えるか、という個別的・具体的なことをもとに議論しないと空中戦になりがちで、個をもとに考えないと、抽象的なことになると思います。

ケーマゲヒンマゲって


寺江:自分の滞在できる場所を中心に、活動を考えようとしてましたが、最初のプランから条件がどんどん変化して、場所もなく、追いやられたというか、最後までなかなか滞在できる場所も見つからないということもありましたし。

花田:今回の難しさは地理的な距離があったということですね。今からまさに、壱岐に入るので。

寺江:普段東京に住んでいて、たったの2週間しか壱岐にリサーチに来れてなかったから、メッセージでやりとりしても、なかなか信頼されないみたいな。関係性を考えると、人と人との実際の距離というのが、大事だったと言えるんだろうな。場所とか人とかが大事と言っているなら、四月にオファーもらった段階で壱岐にずっと滞在しているとか、そうやって近づいて行かなきゃいけなかったかも。だけど、コストの問題があって近づけないみたいな。結局、社会のルールにのっとってお金がないから近づかないみたいなことになる。

花田:今の時点では、そこまで、根を降ろさなくてもできることってあるんじゃないかなとも思ってるんですけどね。例えば、今回みたいにラジオのようなメディアを使って遠い場所に電波で届けるとか(本来収録音声を公開予定だったが、音が悪くて書き起こしとなった)。

寺江:そうすね。僕がジャニーズとかアイドルだったら、あそこの場所使いたいとか言ったら、みんなOKしますよ。物理的な距離だけではないですね。

花田:メディアっていうのは、特にマスメディアは、中立を保ちましょうということがある、基本それはありえないんだけど、けどそれは建前として大事とされていると。壱岐に関して何かをやるというときにも特定の物事に集中するのではなく、色々な物事に中立的に関わる。ちょっと距離感がある他者としての関わり方みたいな。今回は、そのような在り方も面白いかなと思ってます。

寺江:地域の住民と何かをやるときに、鍋会して仲良くなるってことはあると思うんです。でも結局、ちょっと隣の町の人からすると、隣の町のコミュニティだから入りにくいとなる。芸術祭ってどうしてもある地域だけで鍋会してるみたいなことになるわけですよね。そこに入れない人は全く分からないという。

花田:一人の作家がすべての地域で鍋を開くということは難しいですよね。偏りはうまれます。その場合、ある特定の場所で行った鍋の状況を切り取って見せるんだけど、そこから楽譜のようなものをつくりだし、他の街でもリプレイできるような、演劇でいう脚本みたいに。

寺江:今回は仮設・急造するということがプランに含まれているから、そういうものを造らなきゃいけないとは思ってるんですけどね。

花田:伊王島のプランも一貫してそうでしたよね。公共の場所を移動できる形のプランでした。(※伊王島歴史御輿散歩

寺江:ただ、こういうことは……芸術祭ですから、一応芸術なんでしょうけど、どこが芸術なんだと皆がたぶん思っていると思うんですが。

花田:うん。そうそう。鍋を開いたりして、親戚の集まりと何が違うんですかというと、僕らはそこにタイトルをつけるということがある。それは、それについて、いったん立ち止まって考えてみましょうよということですよね。親戚の集まりで鍋をしても、そこに何の意味があるかは考えないです。それが作品としてタイトルをつけると考察の対象になり作品になる。そういうことはありますね。日常で当たり前に起こっていることを、わざわざ切り取って提示し、俯瞰するということが美術の機能としてありますよね。

想像力ってなに


花田:最近思うのが、振り返りの作業とかは、頭の中でやるじゃないですか。頭の中で整理して、言葉をあてはめていく。それは視覚よりも聴覚が向いているんじゃないかなと思うんです。美術は視覚優位ということになってますけど、目で見ても見えてこなくて、目を閉じて考えたほうが分かるみたいなことがある。それで、ラジオで展覧会をするというのはいいやり方なんじゃないかなと思うんです。耳で聞いて想像力を刺激するということはあるんじゃないかと思っています。例えば壱岐で起こったことを、写真やビデオを通じてやるというのも良いんですけど……

寺江:結局、それってラジオと何が違うのかは示す必要が出てくると思うんですけど、新しい美的な経験を提供する方法として考えることはできそうですよね。

花田:そうそう、目で見えているばっかりに逆に見えているものにばかり意識が取られてしまって想像力が働かない。そこを、いったん目をつむることによって想像力が働きだす。

寺江:目は錯覚があるし、心も錯覚があるし、自分の判断を疑うというのは、大事な時もありますよね。目をつむるということで見直すことができるような、芸術にはそういう機能もあります。

花田:それこそが、他者との関わりを考えるうえで大事かなと思うんです。何だかわからないものとしての他者と向き合うときも想像力が必要で、目に見えている情報以外の、背後にある文脈に想像を働かせることが大事です。

寺江:僕、今から逆の意見を言ってみたいと思うんですけど。いいですか。目を閉じてみて、自分が視ていることが間違っているかもしれないとか、普段とは違う状況を考えてみるとか、そういうことを想像することが人間は本当にできるのかなという気がしてます。想像して自分のイメージを持つと、それは固定されると思うんですよ。これは絶対こうだ。というふうになりやすいんだと思うんです。例えば、目の前にリンゴがあって、それはリンゴじゃないかもしれない、なんてことは普段の生活で絶対に思わないわけじゃないですか。だから、それと同じように、ちょっとした政治的なことや判断が難しいことについても、イメージが定着され過ぎていて、それを覆すことが難しいと思うんです。それを覆すために芸術はあったんだと思うんですけど、芸術は想像とかイメージというようなものを大切にしてきたけど、その悪いイメージの使い方を共有させる装置として働いていると考えることもできる、本当に毒になってたりしそうだとも。

花田:まぁ、全ての薬はそもそも毒なんだしね。使いようですね。

寺江:あいつ何であんなことを言ったんだろうか、というようなことを、凄い想像力がある人がイメージを膨らませていくと、あいつのことは信用ならんみたいなことになっていって、攻撃し始めるみたいな。フェイクニュースとか、そういうのと想像力は関係していると思うんですよね。

花田:想像力の使い方が、相手をより敵らしく想像して固めていくっていう。

寺江:まったく真逆に想像力が展開されるということはそう簡単ではないと思うんです。

花田:そうですね。価値のひっくり返し方こそが芸術の力なんだろうけど。お笑いとかまさにそう。マイナスと思われているものをプラスに変えていく営みですよね。

寺江:こないだの平和の少女像(※あいちトリエンナーレ2019の「表現の不自由展」に出品)とかって、イメージのことで考えると凄く難しいと思うんです。僕は肯定的に見てましたが、なかなか皆の意見って、公共の意見として一致しないから。イメージを扱う芸術が、公共とかをいちいち考えなきゃならなくなると、本当にもう完全な毒として、公共なんてあきらめるみたいな方法しかないようにも思えてきます。

花田:表現っていうのは、基本自分のためのものである。みたいな。僕は、基本、表現者は自分のためのわがままであるべきと思っていて、独善で良いのだ、と。独善も一応「善」だし。それがたまたま人の役に立つこともあるし、それがまわりまわって最終的に社会の役に立つこともある。

寺江:なるほど。とにかく、今回は、考えている途中の段階のものを、なるべく残す作業を公共について考えながらしたいなと考えています。今日はありがとうございました。

花田:ありがとうございました。


花田伸一 Hanada Shin-ichi

キュレーター/佐賀大学芸術地域デザイン学部准教授

1972年福岡市生。佐賀市在住。北九州市立美術館学芸員、フリーランスを経て2016年より現職。主な企画『6th北九州ビエンナーレ~ことのはじまり』『千草ホテル中庭PROJECT』『ながさきアートの苗プロジェクト2010 in 伊王島』『街じゅうアート in 北九州2012 ART FOR SHARE』『ちくごアートファーム計画』『槻田アンデパンダン―私たちのスクラップ&ビルド展』。企画協力『第5回福岡アジア美術トリエンナーレ2014』『釜山ビエンナーレ2014特別展』『竹田アートカルチャー2018 昼と夜』『アーティスト・イン・アイランド壱岐2019 ことばのかたち』他。韓国、タイ、ラオス、カンボジア、ベトナム美術調査。


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