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昨日に引き続き映像編集。細かな調整で一日終わりすでに深夜。
この映像は明日以降なるべく早くここでも公開できたらと考えている。内容は、三味線に関連したイベント提案をするための映像だ。この「ケーマゲヒンマゲ」では、公共性と芸術について考えている。この二つに関連するいろいろな考えがあるだろうが、僕の個人的な意見としては、この二つは交わらないと思っている。それは端的に言うと他者の問題が入ってくるから。むしろ、公共性の問いは、人と人とが交われないことをどのように受け入れることができるかを考えるべきだと思っている。ここで力説せずとも、交われないことを皆さんは知っている。にも関わらず、公共などという枠組みがあるということは、きっと分かり合えると確信した人類が編み出した貴重な考えだと僕は思う。僕としては、交われないことが、即不幸の始まりだとは思わない。むしろ、交われないけど、共に生きれるよね。という枠組みを考えましょうよというのが公共ではないか。
公共性は基本的に一つの皆を想定している。実際、皆そう思っている。しかし、皆が一つの同じ考えを持つことなど到底不可能なわけで、戦中の全体主義的な世界であれば可能かもしれないが、昨今のような多様性を求める声が上がっている社会で公共性を担保するのはとても難しいのではないかと僕は思う。なぜなら、「皆違って皆良いよね。」というような単純な多様性を公共に受入れさせるということではもはやないからだ。しかし、そのような難しい公共性について考えてみることにあえてトライしているのが、実はこの「ケーマゲヒンマゲ」だ。
制作中の映像に関連するイベントは、端的に言うと、通りに名前を付けるとか、あるイベントを町内の同意を得て行うとか、そういうことを目論んでいる。なので、実現されるかどうか/できるかどうか、それは僕には分からない。国レベルや世界レベルという話で公共性を考えるのは不可能ではないかと考えているので、小さな社会の中の公共性について考えている。
映像最後に挿入予定のエンドロールの名前について連絡確認。個人名を出したくないということから、チーム名のようなものを考えるという話になっているよう。通りに俗称を付けるという視点のイベント提案であったが、こういう形で名は付けられることになるのだと知る。やはり、ある存在が実感され現れるときに、初めて名がつけられるのだ。そこにいる皆で名を考えること、これこそが公共的な営みだろうと思う。この映像のための撮影は、芦辺浦地域の三味線をしている方に協力を得て行った。この街には、「ちんちりがんがん」とか「芦辺祭」と言われる祭りがある。この祭りに欠かせない祭囃子には、三味線が入っていることが特徴だ。一五〇年以上も続いてきた祭りだそうだが、今回の関わりによって三味線方の練習チームに名が付けられることになるかもしれない。僕としては思いもしないことだった。明日以降お知らせしてくれるとの連絡あり。かつてこの街には三味線教室があり、祭囃子で必要だからということもあり習っておられた方が多数いた。もしその当時、僕が今回の撮影をさせてもらっていたとしたら、三味線教室有志などという言い方で、このまとまりは表されていたかもしれないと推測する。しかし、現在は三味線教室はない。今回、その呼称を僕が聞いたため、皆さんで話し合うとのことだった。
こうやって少しずつだが、奇特な方を通じて街に関わらせてもらうことにより、作品や提案などだけでは現れにくい様々なことが起こっている。この「ケーマゲヒンマゲ」は、芸術祭に参加している作品名・プロジェクト名なのだが、いわゆる作品を一切つくっていない。しかし、このような小さな変化を知ることが、僕としては今回の作品と言えば作品で、知ったことや小さな変化を元に考えたことをこのウェブでお知らせしている。そのように言うと、「なるほど、このブログが作品なのか」と場合によっては思ってもらえるかもしれないが、事はそんなに簡単ではない。
今回、僕は作品ではなく、提案と言っている。その点も含め、芸術関係者においても、やや理解できないと思われそうな形式でこの「ケーマゲヒンマゲ」を行っている。作品を見るためにこの芸術祭に来られた方には大変申し訳ない。僕は作品ではなく、提案をしている。提案が実現された時、それが作品かどうかは分からないし、おそらく作品ではない。そもそも芸術祭や作品に関連して、このように文章をたくさん書くアーティストはあまり聞いたことがないし、この文章の蓄積が何なのか未だはっきりしないが、僕としては今回のプロジェクトのように見える部分がこのウェブしかない状況の今、「これはブログではなく作品です」と言う他ない。そのように僕が言っても、作品の形式を持っていないと判断される方が多数だと思うし、僕自身も、ブログとどう違うのか示すことが今のところできなさそうなのだが、だけど、そもそも芸術作品の形式とは何なのか。という問いも「ケーマゲヒンマゲ」には含まれている。
公共性についての問いは、芸術関係者だけで考えても今までと変わることはない。社会を志向する芸術の問題は、結局、芸術をしてしまっていることにあると僕は思う。それから芸術外部の意見を取り入れることなく、美術史がつくられてきたことにも問題があると僕は思う。そう言うと必ず、芸術は変化してきているし、社会的な作品もある。外部を取り入れていないことはない。あなたの言う事は間違っている。と言われそうだ。確かに、僕がここで書いていることは、考えている途中のことであり、間違いであるかどうかは後になって判断するのだから、僕が間違っていることを言っていることは十分にあると分かっている。
僕はとにかくまだ上手く言えないのだが、今回は提案をしている。