混乱から抜け出し、そしてもう一度モヤっとする

このプロジェクトは、「滞在しながら制作するというものです」そう言うと、絵を描くのか?と問われるので「絵も描きます」と言っている。「え。もって何?」と言う相手の声が聞こえてきそうだ。ところが、実態は、絵なんて今のところ描いておらず、このウェブサイトにしこしこ書き綴ったものが、見ることができる部分のほとんどであって、最終的な成果としてイベントのようなものを提案しようとしてはいるが、それだって、一部地域の住民を対象に考えている閉じたものだし、イベントを急造できないのならできないで、それもまた吉。と考えているのだから、やはり、ここで書いている文章がこの活動のキモなのだ。

しかし、ここでそのキモに少々混乱が生じてきた。毎日更新している「今日の」と、「ケーマゲヒンマゲして考えたこと」という二つに、いったいどんな違いがあるのか、本人さえ正確に言えるのか怪しい気になってきているからだ。

「今日の」はとても分かりやすい。毎日の出来事や、考えたことを書く。一方の「ケーマゲヒンマゲして考えたこと」は、そのタイトル通りなのだが、しかし、「今日の」で書いている日々のあれこれは、「ケーマゲヒンマゲ」のための準備や活動と、それを通して考えたこと等を書いているのであって、そこで書かれたあれこれは、そのまま「ケーマゲヒンマゲして考えたこと」なのではないか。という混乱である。

この「ケーマゲヒンマゲ」はいったい何なのか。それが、「ケーマゲヒンマゲして考えたこと」の文章から、徐々にみなさんに明らかになっていかなくてはならないのだから、 僕はこの違いを示しておかなければならないだろう。「いったいこれは何なのか。」と言っているだけで、実態は無く、唯一ここの文章が実態らしきものなのだから、そもそもが混乱した状態のもので、それをさらに複雑なものにする意図はない。

「今日の」で書かれていることは、「ケーマゲヒンマゲ」の活動を公開し、日々の経験から考えたことを書いている。日々の取り組みの蓄積なのだから、プロセスがそのまま見れるというものだ。仮にこのプロセスこそが「ケーマゲヒンマゲ」なのだ。と言えば、これが「ケーマゲヒンマゲ」の実態だと言うこともできる。経験を通した表現未満のようなものとして見られるのだろう。

一方で「ケーマゲヒンマゲして考えたこと」では、芸術や公共について思索したことが今のところ書かれている。このような文章を通して「ケーマゲヒンマゲ」の意味とイメージをじわじわと創り出そうとする試みでもある。全く謎の物体がまず先にあり、それに振り回される形で進むストーリーというのは、昔からある。それと似た構造を持ち込んでいるとも言える。それから「今日の」では日々の経験的なことを取り扱っているのだから、「ケーマゲヒンマゲして考えたこと」では、そうではない事について書こうとしている。

いずれにせよ、これはいったい何なんだ?というような、はっきりとしない途中のモヤモヤが、次第に何らかの意味を帯びたり、見える形になっていったりする、その前の段階にある。その前段階に「ケーマゲヒンマゲ」というタイトルをつけていると言うわけだ。その何だか分からないまだ現れていないことを、表そうとし続け、そして現れない、というような状態を急造しようとしている。とも言える。

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