このプロジェクトのため、壱岐の調査を始めて、印象的な一冊の郷土史を見つけました。この他にもたくさんの方がいろいろな角度から調査されたものがあるようです。それらの一部は、地域の図書館にもありました。個人で活動されている場合は印刷された書類がファイルに挟まっているようなタイプのものまで蔵書で置かれています。

今回紹介するのは「郷土史わたら」 (竹下力雄著) です。著者は定年退職後、故郷の郷土史を制作するために個人で調査執筆を開始されたようです。その後志半ばで病に倒れ、遺稿として遺族が発刊したものです。

郷ノ浦図書館で見つけ、ざっと読んではいたのですが、 僕がこの資料を手に入れたのは、福岡の古本屋でした。改めてじっくり読んでみると、とても素晴らしいものだと分かります。知らなかった地域の情報を手に入れるということだけではないものを感じました。特に、「まえがき」と「あとがき」で書かれている著者の言葉は、現在にも通じている内容だと思いました。

特に大東亜戦争後は敗戦、被占領の現実に直面したため日本の歴史に懐疑を生じ、自分の郷土の伝説さえ真実性があるかどうか疑いを持つ人が多くなってきた今日である。

「郷土史わたら」まえがきより

反省をし未来に繋げる学として民俗学は位置づけられているそうですが、この郷土史もまさにそのような意気込みで編纂されているのです。「郷土史わたら」の中で触れられている伝説、祭り、唄の中にも、すでにどんな理由で行われていたかや、どんなものだったかが分からなくなっているものがあると書かれていました。こういった文化は、時と共に変化し、あるいは忘れ去られるということはよくあることですし、経済活動の変化により、文化の形は常に変わってきました。歌舞伎や相撲や和食や落語や……と数える意味がないほど身の回りの全てが変化してきているわけですし、僕達はみんなそのことを知っています。先日テレビを見ていたら、「除夜の鐘に苦情が寄せられるようになったから、昼から打つようにしたら苦情が今のところない。」というようなバカげたニュースをやっていました。しかし、こうやってバカげていると言っている間に、平気でどんどん変わるのです。このようなことは小さな変化ではありません。僕達の生活や生き方や考え方に変更が迫られているということだと僕は考えています。地域の祭りが一つ無くなることは、それはその土地に何か変化が起きていることを意味します。

僕は、文化も経済も守られるべきだと思っているわけではありません。実際に両方とも、良い悪いではなく変化してしまっているわけですし、壊れてしまったほうがよほど創造的な事が起こるのではないかとさえ思うこともあります。ただ、こうした変化の歴史については、大事にすべきだろうと思っています。数年前、図書館にあった郷土史が焼却処分されていたというニュースがありました。反省とそれを未来に繋げるための郷土史が焼却されてしまうというのは、反省するという態度を完全に失ってしまったようなエピソードとして受け取ることもできます。これは郷土史の価値の問題だけでなく、態度の問題として、文化にとっても経済にとってもおそらく大きな損失だろうと思います。それは、反省というのが、想像を膨らませるきっかけの材料として、有益だからです。

僕はお酒で失敗して、何度も繰り返し同じ反省をするというようなことがありますが、そういう意味ではありません。だから、反省すればいいというものでもなさそうです。僕は、このことについて、まだ上手く示すことができなさそうなのですが、それはつまり回り道をするというようなことに似ていると考えています。また、それは個人的な失敗の反省という類ではなく、人々の営みから導き出される反省のことです。

最後に「郷土史わたら」のあとがきの一部を紹介して終えます。

時代は進展してゆく、若い人は誇りと自信を強め希望に満ちた将来へ向かってたくましい前進をつづけなければならない。その前進のためには先づ自分を育んでくれたふるさとの地域社会の姿をありのままに認識し地域が持っている伝統と特質を最高度に生かし、今地域が抱えている色々の問題点があればそれを掘り起こし旺盛な創造力と英知をしぼって対処し、ふるさと渡良の発展を期すべきである。

「郷土史わたら」あとがきより

書かれている場所は僕の故郷ではありませんが、これはつまり「反省して皆頑張れ」と言っているわけで、特定の地域に限られたことではないメッセージだと受け取りました。あらゆる社会問題に対しても、同じように”旺盛な創造力と英知をしぼって対処”していかなければならないとも思います。

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