ヨソモノである僕は、どうやってこの壱岐という場所に馴染むことができるか、どのくらい壱岐を知ることができるのか。今回のプロジェクトに取り組むにあたって、こういうことから取り組まなければなりませんでした。それが、オファーがあった2019年の4月からです。とはいえ、それからずっと壱岐に滞在できているわけでなく、ほとんどは書籍やインターネットを通じたリサーチです。僕が壱岐に滞在したのは合計するとわずかに2週間程度。この12月からの滞在を含めると合計約2か月の滞在となります。このような状態で、壱岐の何が知れるのか、何も知れないのではないか、表現や美術を通して乱暴な態度となりはしないか、といくらか不安な気持ちがあります。都市の記憶や保存について研究したハイデンの「場所の力」には、「あなたがロサンジェルスを理解するには5年かかるか、あるいは10万マイル走破することになるでしょう。」とある人に言われ、5年かけて悪戦苦闘して場所を理解しようとしたことが書かれています。僕は社会学者でも歴史学者でもないですが、このような時間をかける研究態度というのは、美術においても採用されるケースがあります。

今回はそのような潤沢な予算はなく、限られた時間の中で、個人の力量を示さねばならない、僕としては非常に危ない綱渡りのようなプロジェクトをプランとして提出し、実行委員の方々を困惑させてしまったに違いありません。本来であれば、リサーチのための人員やボランティアなど、たくさんのスタッフが動ける状況をつくれないのであれば、過去に制作した絵画作品や彫刻作品を再制作や再展示するというような方法をとるべきだったかもしれません。

結論から言えば、元のプランは、ほぼ白紙になってしまいました。

準備期間の約9か月は、アイデアを出したり、資料を探したり、現地を訪れたり、場所の提案をしたり、企画書を提出したりと、短い期間ですが、たいへん悩ましく、上手くいかず、知ることができず、近づくことができない。そういう期間でした。それは珍しいことではなく、一人で個人的な作品を創る場合であっても、たいがいこういう悩ましい方法で行われます。だから、白紙ということ自体はいつもの慣れたもので、このプランがダメなら次のプランへ。というふうに切替もできます。今回もそうしてきました。しかし壱岐が舞台だということは、そう簡単ではありません。もちろん、簡単にすることはできます。だけど、僕は与えられたできる範囲で、できるだけ難しいこととして取り組みたいと考えています。なぜなら、壱岐にはたくさんの歴史があり、それぞれの地域のコミュニティにも深みがあるからです。それを数日の滞在で簡単に切り取り、創作することに、どんな意味があるのか僕には分かりません。そんなことを言い出せばキリはなく、先に触れた学者のようなスタイルと比べたとき、僕はどちらにしても浅はかだと言う自覚はあります。壱岐だけでなく、地域はどこも複雑だとも言えます。そんな複雑な地域に芸術という特権を用いてヨソモノが入り込み、どうどうと作品を制作するような仕方ではない方法を考えてみたいと思い、元のプランを考えていました。できるだけ芸術ではなく見え、様々な人が使うことができる、そんな場を創れないかと考えていましたが、それはいったん白紙としてしまったので、直前になってしまった今、次のプランでまた白紙にしてしまうと、成果物が無いという事態になってしまいます。

個人的には成果物など数か月や数年でできるはずもない、という気持ちがあるわけですが、そうは言っても、アーティストの中には、毎年のように素晴らしい作品を生みだすことに成功している人もいます。そういう意味で、失敗したとしても、僕個人の力量でしかなく、地域がどうのこうのとか、大切に難しく扱いたいというようなことは、全く関係のないことだとも言え、ここに書いていることの全ては単なる言いわけに過ぎないと言えます。

だけれども同時に、そもそも日本で行われている多くの芸術祭と呼ばれる形式は、ヨソモノが入ることを前提としていることや、公金などを使うことから、理想的には住民への一定の説明が成されるべきだと僕は考えています。それを、個人的な欲望を扱う場として作品制作をすることが、今の僕にはできません。もちろん、作品という概念には、そういう要素が含まれがちなわけで、僕にしたって、結局そういうものが含まれるに決まっています。だけれど、それだけではないと僕は思うのです。

今回の僕の活動の根っこには2つのことがあります。1つは、その公的な説明をどうしたらいいか。ということ。これは、個人的な作品のことが第一に含まれてしまいますが、それよりも芸術全般について、現在の社会と芸術がどのような影響関係にあるかということについて思考したいということでもあります。これについては改めて書いてみようと思います。2つ目が、どうどうと作品を制作しない。ということについて考えています。

現段階では、結果的にどうなるのか、分からないことだらけなのですが、それがアートだ。と、とりあえず特権をかざします。

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